会社概要
私たちのお約束
突然の別れの時、
不安なご遺族をお支えします
ご遺族の意思を尊重し
最良の選択肢をご提案いたします
弊社は野田市の葬儀社として
創業より五十年、
地元の皆様に愛されてまいりました。
「ご遺族に寄り添う葬儀社」を
モットーに
真心のあるスタッフが
精神誠意皆様をサポート致します。
~大切な方への想いを形に~
ご挨拶
代表 渡貫 大造
~人との繋がりを大切に、
そしてその思いを形に~
大紫典礼典礼のホームページへアクセスして頂きありがとうございます。
私の自己紹介をさせて頂きます。
(家族)
猫3匹、犬2匹そして妻1人
(趣味)
・模型作り
・バイク
・クレー射撃
・壊れたものを復活させること
残念ながら亡くなった人を復活させることは出来ませんが(-_- ; )
1961年7月に千葉県野田市で、農業を営んでいた両親のもとに長男として生まれました。
そして私が小学生の頃に父は食堂を営むようになり、中学生の頃には葬祭業も営むことになりました。
子供の頃から父は私に商売を継がせたく、勉強はそこそこで良いから仕事を継いでくれとよく言っていました。
勉強はそこそこで良いと言う言葉には甘えていましたが、自分の将来は決まっているのかと反感を抱いたこともありました。
しかし父の言葉は絶対で、中学生の頃から食堂で皿洗いを手伝わされたり、葬儀の仕事も手伝わされていました。
初めは何て言う父親だ!と思っていましたが、お小遣いが入る事で良しとしていました。
そして定時制高校を通いながら調理師の学校に通って調理師免許を取得しました。
その後は父の経営する食堂で調理師として働きながら食堂で調理の仕事をしたり、葬儀の仕事をする父の姿をずっと見ているうちに、尊敬の気持ちが大きくなっていました。
いつかは自分が両方を受け継ぐのであろうと思いながら食堂で働いていました。
そしてその日は思ったより早くやって来ました。
私が38歳の時父はガンで他界しました。
その後食堂を整理して葬儀社の代表として会社を経営をすることになりました。
父の側で仕事は見ていましたので、少し戸惑うことはありましたが仕事は何とか出来ていました。
そして葬儀の仕事を始めてから思わぬことがありました。
それは、父が経営していた頃のお客様から感謝の言葉を頂くことが多かったことです。
「親父さんからはいつも良くしてもらったよ」
「先代の社長からはいつも助けてもらったよ」
「先代の社長はとても良い人で親切にしてもらった」などのお言葉を頂きました。
ワンマンな父でしたので振り回されることが多く、私に対してはいつも強気な姿勢でしたので正直意外でした。
しかし義理と人情の父でしたので、見習うべきは父のこう言った部分だと思いました。
私は仕事上、人の死と向き合うことが多いです。
それは葬儀と言う単なる儀式ではありません。
幼い頃悪ガキだった私は、近所のおじちゃんからよく叱られたものでした。
そのおじちゃんにはよく怒られたけど、自転車のパンクを直してもらったり色々とお世話にもなりました。
そのおじちゃんが病で倒れて帰らぬ人となり、旅立つ時・・・
小学生の頃、授業中におしゃべりをして怒られたり、校庭に穴を掘っては先生を困らせていました。
そんな私でしたが、先生にはいつも大きな心で受け止めてもらいました。
その恩師が老衰で亡くなって、旅立つ時・・・
友人の家に遊びに行くと友人のお母さんからよく腹ごしらえにおにぎりを作ってもらいました。
育ち盛りの頃には随分とお世話になったおばちゃんが救急車で運ばれてそのまま帰らぬ人となり、
旅立つ時・・・
よく通っていたラーメン屋の親父さんにはいつもおかず一品サービスしてもらっていました。
他愛もない会話で元気までももらっていました。
そんな親父さんが急に倒れて帰らぬ人となって、旅立つ時・・・
幼少期の頃から現在まで、多くの別れを経験してきました。
そのお別れの一つ一つは単なる儀式ではありません。
人と人はどこかで繋がっていて、そこには思いが詰まっていて、とても尊いものです。
父が人から感謝される人であった様に、私もそうなりたい!
だから誓いました。
私の自己紹介をさせて頂きます。
(家族)
猫3匹、犬2匹そして妻1人
(趣味)
・模型作り
・バイク
・クレー射撃
・壊れたものを復活させること
残念ながら亡くなった人を復活させることは出来ませんが(-_- ; )
1961年7月に千葉県野田市で、農業を営んでいた両親のもとに長男として生まれました。
そして私が小学生の頃に父は食堂を営むようになり、中学生の頃には葬祭業も営むことになりました。
子供の頃から父は私に商売を継がせたく、勉強はそこそこで良いから仕事を継いでくれとよく言っていました。
勉強はそこそこで良いと言う言葉には甘えていましたが、自分の将来は決まっているのかと反感を抱いたこともありました。
しかし父の言葉は絶対で、中学生の頃から食堂で皿洗いを手伝わされたり、葬儀の仕事も手伝わされていました。
初めは何て言う父親だ!と思っていましたが、お小遣いが入る事で良しとしていました。
そして定時制高校を通いながら調理師の学校に通って調理師免許を取得しました。
その後は父の経営する食堂で調理師として働きながら食堂で調理の仕事をしたり、葬儀の仕事をする父の姿をずっと見ているうちに、尊敬の気持ちが大きくなっていました。
いつかは自分が両方を受け継ぐのであろうと思いながら食堂で働いていました。
そしてその日は思ったより早くやって来ました。
私が38歳の時父はガンで他界しました。
その後食堂を整理して葬儀社の代表として会社を経営をすることになりました。
父の側で仕事は見ていましたので、少し戸惑うことはありましたが仕事は何とか出来ていました。
そして葬儀の仕事を始めてから思わぬことがありました。
それは、父が経営していた頃のお客様から感謝の言葉を頂くことが多かったことです。
「親父さんからはいつも良くしてもらったよ」
「先代の社長からはいつも助けてもらったよ」
「先代の社長はとても良い人で親切にしてもらった」などのお言葉を頂きました。
ワンマンな父でしたので振り回されることが多く、私に対してはいつも強気な姿勢でしたので正直意外でした。
しかし義理と人情の父でしたので、見習うべきは父のこう言った部分だと思いました。
私は仕事上、人の死と向き合うことが多いです。
それは葬儀と言う単なる儀式ではありません。
幼い頃悪ガキだった私は、近所のおじちゃんからよく叱られたものでした。
そのおじちゃんにはよく怒られたけど、自転車のパンクを直してもらったり色々とお世話にもなりました。
そのおじちゃんが病で倒れて帰らぬ人となり、旅立つ時・・・
小学生の頃、授業中におしゃべりをして怒られたり、校庭に穴を掘っては先生を困らせていました。
そんな私でしたが、先生にはいつも大きな心で受け止めてもらいました。
その恩師が老衰で亡くなって、旅立つ時・・・
友人の家に遊びに行くと友人のお母さんからよく腹ごしらえにおにぎりを作ってもらいました。
育ち盛りの頃には随分とお世話になったおばちゃんが救急車で運ばれてそのまま帰らぬ人となり、
旅立つ時・・・
よく通っていたラーメン屋の親父さんにはいつもおかず一品サービスしてもらっていました。
他愛もない会話で元気までももらっていました。
そんな親父さんが急に倒れて帰らぬ人となって、旅立つ時・・・
幼少期の頃から現在まで、多くの別れを経験してきました。
そのお別れの一つ一つは単なる儀式ではありません。
人と人はどこかで繋がっていて、そこには思いが詰まっていて、とても尊いものです。
父が人から感謝される人であった様に、私もそうなりたい!
だから誓いました。
”お客様に寄り添う葬儀をする”
”いつも誠実でありたい”
”感謝される人になる”
”いつも誠実でありたい”
”感謝される人になる”
Company
事業内容
- 葬祭事業・搬送事業・葬祭用品販売・ペット仏具販売
- セレモニーホール運営事業 ・ 生花販売 ・贈答品販売 ・ ドライアイス販売
Access
-
電車をご利用の方
東武アーバンパークライン(旧東武野田線)
梅郷駅西口より徒歩7分
流山街道沿い山崎(みずき)交差点角 -
お車をご利用の方
常磐道流山ICより野田方面へ10分位
常磐道柏ICより野田方面へ15分位
流山街道沿い山崎(みずき)交差点角
※カーナビをご利用の方
「千葉県野田市山崎1710」と入力してください
大紫典礼セレモニーホール
千葉県野田市山崎1710
Tel:04-7123-2816
※駐車場は混雑が予想される場合があります。
できるだけ公共機関のご利用をお願いいたします。